Planet Journal 惑星日記 山崎美弥子|vol.1 巡る、始まる
人生の始まり
レ・ヴィ(la vie)とはフランス語で人生という意味だという。そんな名を待つ彼は、太平洋の青に浮かべた白いマストが際立つ、38フィートのセールボート(ヨット)を住処として暮らしていた。わたしは、出航しようとするタイミングの彼と出会い、船上の人生(la vie)にジョインすることを選択した。
「風が好きだ」と言う彼と一緒に、波の上を水平線を目指して漕ぎ出す日々を始めたのだ。山々のシルエットも見えない、潮風だって届きはしない、そんな大都市(まち)で生まれ育ったわたしにとって、それは紛れも無い大冒険だった。冒険どころか革命だったかもしれない。大都市では特別なものとして扱われている、有名なマークのついたバッグやコート、ピカピカした飾り物の類はどれも、欲しがる誰かにあげてしまった。波に揺られる船上の人生にとっては、それらすべてが不要であるばかりか、お荷物になるだけだったから。
船上の日々では、時に人が「神」と呼んだりする何かの臨在を感じられるような出来事を、幾度となく経験した。それは、かけがえのない光る生命(いのち)のような時の連なり…。こうしてわたしはごく自然に、波のリズムに合わせて呼吸するようになっていった。
あの頃の夜更けの海ではいつも、発光する青白いマンタレイたちが月が反射したエメラルドグリーンの海面を透かし、かげろうのように泳いでいた。シルクみたいにしなやかに。
島での時間
……間もなく、わたしたちの船上の日々がクロージャー(終わり)を迎え、この島に上陸してからの次なる人生の章は、それはゆったりとしていて、同時に目まぐるしいものだった。わたしたちは、二人で力を合わせて家を建て、種を蒔き、たくさんの花を咲かせた。娘たち、キラカイとタマラカイも生まれた。
木の枝には、わたしたちを育み満たす豊かな果実たちが溢れるほど実った。そうして12ヶ月は幾度も巡り、ハイビスカスの色数はマジェンタ、アイヴォリー、ゴールドに増え、わたしたちにとっての17回目の常夏の冬が訪れた頃、彼は、遂に海の人生に還ることを決断した。そう、たったひとりで還ることを。
再び旅立つとき
人生という名を持つこの人は、もう一度、彼の夢を果たす道を選んだ。限りある、この惑星における人としての時間…。だから、今しか行く時は無い。わたしがあの時「クロージャーを迎えた」と理解した、海に捧げる人生は、彼の心の地図上では終わってなどいなかった。もう一度、あのマストを真っ直ぐに、天に向かって聳(そび)え立たせることを、彼は人知れずに準備して来た。
真っ白いマストのバックグランドを、夕暮れ時の珊瑚色や、インディゴブルーの夜明け色で、いつでも再び塗りつぶせるように。白いマストは劇場映画のスクリーンのようにさまざまなシーンを映し出す。それを、じっと見つめる彼の青い瞳を思う。わたしは、そんなふうに生きる人を、こころから、美しく、気高いと感じた。
千年後の未来へ
ふたりの娘たちも成長し、気がつくと、夜空色が透けたキッチンの窓ガラスに映り込んだ彼女たちの姿は、わたしの背丈を悠に超え、彼女たちらしい人生という航海を、始める準備がもう出来始めている。
…旅立つ人たちを送り出してしまえば、わたしはただ、島の女神が巡りあわせてくれた土地を守り、そして、この地に守られながら、カンバスに千年後の未来の風景を描き続ける。人生という名を持つ人が見つめる、遠い海と空の色たちを、時に思いながら。
朝、鳥たちのさえずりは山から滑り落ちて、天国131番地の家の窓に次々と届く。シトラスの枝に新しいライトグリーンが芽吹く時の、聞こえそうで聞こえない素敵な音。…わたしはふっと、微笑んだ。
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